New Person People
Id |
Name |
Family Name J |
First Name J |
Family Name E |
First Name E |
Birth Year |
Birth Month |
Bitrh Day |
Death Year |
Death Month |
Death Day |
Url |
Description |
Created At |
Updated At |
Actions |
21 |
伊藤昇 |
いとう |
のぼる |
Ito |
Noboru |
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22 |
佐村河内守 |
さむらごうち |
まもる |
Samuragoch |
Mamoru |
1,963 |
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23 |
佐藤俊介 |
さとう |
しゅんすけ |
Sato |
Shunsuke |
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24 |
佐藤長助 |
さとう |
ちょうすけ |
Sato |
Chosuke |
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0 |
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25 |
保科洋 |
ほしな |
ひろし |
Hoshina |
Hiroshi |
1,936 |
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26 |
信国康博 |
のぶくに |
やすひろ |
Nobukuni |
Yasuhiro |
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27 |
信時潔 |
のぶとき |
きよし |
Nobutoki |
Kiyoshi |
1,887 |
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1,965 |
0 |
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大阪生まれ。少年時代から讃美歌に親しみ、東京音楽学校(現・東京芸大)に入学、本科器楽部卒業後研究家に進んでチェロと作曲をハインリヒ・ヴェルクマイスターに、指揮法その他をアウグスト・ユンケルに、対位法と和声法をルドルフ・ロイテルに学んだ。1920年チェロと作曲研究のため文部省派遣留学生としてドイツに渡り、ベルリンでゲォルク・シューマンに師事した。帰国後1923年からは母校の教壇に立ち1932年に退官するまでの9年間作曲を講じた。 1942年には日本芸術院会員に推挙されるなど、戦前は歌曲、合唱曲の主導的な作曲家であった。しかし戦後は、軍国主義に巻き込まれた戦中の責任を感じ、ほとんど作曲の筆を取らなかった。作風はドイツ古典音楽の伝統を踏まえて穏健着実、重厚堅固な構成力を持つオーソドックスかつアカデミックな手法により日本人の心情の動きを表したもの。無調的な音楽、12音技法などいわゆる現代音楽の進む道とは異なる方向を歩き、シェーンベルクやドビュッシーに対しては批判的であった。しかし一方でドイツでシェーンベルクの楽譜を多数手に入れ、彼の音楽技法を日本で初めて研究しており、その12音技法などを熟知しながら、いわゆる現代音楽には与しなかったというエピソードには、彼の音楽哲学が伺える。戦後、自らの音楽についてインタビューを受けたときも、彼は「音楽は野の花の如く、衣裳をまとわずに、自然に、素直に、偽りのないことが中心となり、しかも健康さを保たなければならない。たとえその外形がいかに単純素朴であっても、音楽に心が開いているものであれば、誰の心にもいやみなく触れることができるものである。日本の作曲家で刺戟的な和声やオーケストレーション等の外形の新しさを真似たものは、西洋作曲家のような必然性がない故に、それの上を行くことはできない。自分は外形の新しさを、それがどうしても必要とするとき以外は用いない。外形はそれがいかに古い手法であってもよいと思う。」と応えている。主要作品に戦時下における文化面での戦争協力機関であった日本文化中央連盟の委嘱で書かれた大規模なカンタータ「海道東征」、戦時下最もポピュラーな軍歌だった「海行かば」、独唱曲「沙羅」、ピアノ曲「木の葉集」、鍵盤楽器又は合唱のための「東北民謡集」など。教育者としては下総皖一、橋本國彦、細川碧、高田三郎らを育てた。(参考文献:「日本の作曲20世紀 Ontomo mook」、富樫康著「日本の作曲家」共に音楽之友社) |
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28 |
八木伝 |
やぎ |
つたえ |
Yagi |
Tsutae |
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29 |
八木澤教司 |
やぎさわ |
さとし |
Yagisawa |
Satoshi |
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0 |
0 |
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30 |
兼田敏 |
かねだ |
びん |
Kaneda |
Bin |
1,935 |
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2,002 |
0 |
0 |
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旧満州(現・中華人民共和国東北部)生まれ。小学校4年の時に終戦。京都の上京中学校のブラスバンドでコルネットを担当し、山下清孟(世界的打楽器奏者ツトム・ヤマシタの父)の教えを受け、これが音楽との直接の結びつきになる。堀川高等学校を経て1956年の東京藝術大学入学までに、歌曲六十数曲、交響曲、協奏曲各三、四曲を書き、高校の卒業作品がピアノ協奏曲という早熟振りであった。芸大では下総皖一に師事。在学中の1956年に第25回音楽コンクール室内楽部門2位、翌年は同コンクール管弦楽部門で第1位を獲得している。岐阜大学教授、愛知県立芸術大学教授、岐阜大学大学院教育学研究科教授を歴任。日本管打・吹奏楽学会顧問、日本バンドクリニック委員会代表、ナゴヤ・ディレクターズバンド指揮者等も勤めた。人一倍毒舌家である反面、大変な正義漢で優しい人物で多くの人の尊敬を集めた。管弦楽やピアノなどに優れた作品を書いた一方で、盟友保科洋?と共に吹奏楽に深く関わり、戦後の日本の吹奏楽文化の普及と興隆を、作品提供と指導の両面において、絶えずリーダーシップをとってきた。作品は、作曲者の内面の吐露が音として再構成されており、情緒を極度に排除した意志の強さを持っている。作品、特に吹奏楽作品に関して作者は「吹奏楽という演奏形態がもっている交響的な能力が発揮でき、表面的なものだけでなく、人間の心の奥深くによどんでいる何か判然としない情感といったものを表現できないか」(交響的瞬間より)、と述べている。作風は難解でなくしっかりとした構成をもったもの。代表作に管弦楽のための「25のヴァリエーション」、木管楽器のための「インプロヴィゼーション」、弦楽オーケストラのための「小交響曲」、さまざまな自然の情景と心の移ろいを、ピアノを通してうたいあげた小曲集「瓶の中の景色」など。2002年、癌により惜しまれつつも他界。(参考文献:‘83音楽の友・音楽芸術別冊「日本の作曲家」) |
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31 |
内藤淳一 |
ないとう |
じゅんいち |
Naito |
Jun-ichi |
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32 |
出塚健博 |
でづか |
たけひろ |
Dezuka |
Takehiro |
1,971 |
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33 |
別宮貞雄 |
べっく |
さだお |
Bekku |
Sadao |
1,922 |
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0 |
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34 |
加藤昌則 |
かとう |
まさのり |
Kato |
Masanori |
1,972 |
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0 |
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0 |
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35 |
北爪やよひ |
きたづめ |
やよひ |
Kitazume |
Yayoi |
1,945 |
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0 |
0 |
0 |
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東京に、音楽一家北爪家の1人として生まれ、父は高名なクラリネット奏者で日本クラリネット協会名誉会長も務めた北爪利世、弟は作曲家北爪道夫である。1971年東京芸大大学院修了。池内友次郎、矢代秋雄に作曲を師事した。代表作にクラリネットとピアノのための「ソナチネ」、エネク(3ソプラノと2trp. perc.)、芽(筝、十七絃、リコーダー)など。(参考文献:秋山邦晴著「日本の作曲家たち」音楽之友社) |
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36 |
北爪道夫 |
きたづめ |
みちお |
Kitazume |
Michio |
1,948 |
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0 |
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0 |
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37 |
南俊明 |
みなみ |
としあき |
Minami |
Toshiaki |
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0 |
0 |
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0 |
0 |
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38 |
南聡 |
みなみ |
さとし |
Minami |
Satoshi |
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0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
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39 |
原博 |
はら |
ひろし |
Hara |
Hiroshi |
1,933 |
0 |
0 |
2,002 |
0 |
0 |
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埼玉県熊谷市生まれ。1957年東京芸術大学作曲科卒業。在学中は池内友次郎に師事。翌年第27回日本音楽コンクール作曲室内楽部門第3位入賞。1961 年フランス政府給費留学生としてパリに留学。パリ音楽院でJ・リヴィエらに師事。1962年ニース国際音楽作曲コンクール優勝。1964年に帰国。 1965年第1回作品発表会。同年秋、第2回作品発表会を開催。洗足学園大学、桐朋学園短大、東京藝術大 勤務を経て、1990年より長崎大学教授。作風は無調のものもあるがほとんどが機能調性で書かれ、バロック様式・古典様式に範をとったものが多い。これは原氏自身、「古典の形式を超える美しい形式は、未だこの世に存在していない」「フーガという音楽形式が、他の諸々の音楽形式から抜きんでて、とりわけ高度なものだという認識は、特に間違っているわけではないと思う。」という主張をしているからで、熟練した線的書法で極めて高度な作曲技術を用いた、シンプルであるが非常に美しい作品を書いた。代表作に交響曲、シャコンヌ(ヴァイオリンと管弦楽のための)、四つのピアノソナタ、24の前奏曲とフーガなど(これら原氏の作品は「アート・ユニオン」から出ているCDで聴く事ができる)。著書に「無視された聴衆」(アートユニオンクラシック音楽事業部)、「実力養成のための和声実習110課題集」(全音出版社)がある。 |
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40 |
原嘉壽子 |
はら |
かずこ |
Hara |
Kazuko |
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0 |
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