兼田敏(Kaneda, Bin)
(1935 - 2002)
旧満州(現・中華人民共和国東北部)生まれ。小学校4年の時に終戦。京都の上京中学校のブラスバンドでコルネットを担当し、山下清孟(世界的打楽器奏者ツトム・ヤマシタの父)の教えを受け、これが音楽との直接の結びつきになる。堀川高等学校を経て1956年の東京藝術大学入学までに、歌曲六十数曲、交響曲、協奏曲各三、四曲を書き、高校の卒業作品がピアノ協奏曲という早熟振りであった。芸大では下総皖一に師事。在学中の1956年に第25回音楽コンクール室内楽部門2位、翌年は同コンクール管弦楽部門で第1位を獲得している。岐阜大学教授、愛知県立芸術大学教授、岐阜大学大学院教育学研究科教授を歴任。日本管打・吹奏楽学会顧問、日本バンドクリニック委員会代表、ナゴヤ・ディレクターズバンド指揮者等も勤めた。人一倍毒舌家である反面、大変な正義漢で優しい人物で多くの人の尊敬を集めた。管弦楽やピアノなどに優れた作品を書いた一方で、盟友保科洋?と共に吹奏楽に深く関わり、戦後の日本の吹奏楽文化の普及と興隆を、作品提供と指導の両面において、絶えずリーダーシップをとってきた。作品は、作曲者の内面の吐露が音として再構成されており、情緒を極度に排除した意志の強さを持っている。作品、特に吹奏楽作品に関して作者は「吹奏楽という演奏形態がもっている交響的な能力が発揮でき、表面的なものだけでなく、人間の心の奥深くによどんでいる何か判然としない情感といったものを表現できないか」(交響的瞬間より)、と述べている。作風は難解でなくしっかりとした構成をもったもの。代表作に管弦楽のための「25のヴァリエーション」、木管楽器のための「インプロヴィゼーション」、弦楽オーケストラのための「小交響曲」、さまざまな自然の情景と心の移ろいを、ピアノを通してうたいあげた小曲集「瓶の中の景色」など。2002年、癌により惜しまれつつも他界。(参考文献:‘83音楽の友・音楽芸術別冊「日本の作曲家」)
吹奏楽作品
編曲作品
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