(1914 - 2009)
長野更級郡の農家に生まれた。そこはラジオさえ普及していない純農村で、音楽的環境といえば神楽囃子や盆踊りなど郷土芸能が全てで、洋楽的な音にはほとんど汚染されなかったことが小山自身にとってはなはだ幸運であったという。1933年に長野師範学校卒業後、県下の小学校に勤務しながら作曲を志す。1939年より4年間安部幸明に作曲を師事し、後に池内友次郎、金子登にも師事。東京都教員管絃楽団にてフルートを担当し、オーケストラを体得、同時にそこで指揮者を務めていた渡邊浦人?と知り合い、啓発される。1946年に第14回音楽コンクールにて「管弦楽のための信濃囃」で衝撃的なデビュー。1950年に渡邊浦人、渡辺茂、平井康三郎、山本直忠(山本直純の父)、金井喜久子、石井五郎ら同志と「日本」を意識した創作活動を行う作曲グループ「白涛会」を結成。1956年、深井史郎、貴島清彦、牧野由多可、塚谷晃弘らと、手法は様々異なりながら、民族的な語法による新しい音楽の探求を共通項とした「新音楽の会」も結成。また1971年には弟子の中西覚らと結成した「たにしの会」としても活動し、日本の旋法、和声を理論づけし、その成果を「日本和声 そのしくみと編・作曲へのアプローチ―日本の音を求めて」にまとめた。また自作についても著書「日本の響きをつくる―小山清茂の仕事」で語っている。作風は1930〜40年代の伊福部昭や渡邊浦人の民族主義的音楽に刺激され、その種の創作に向かったとは言うものの、彼らの作品とは全く異なる、温和で徹底した日本風の音楽。代表作に、指揮者の渡邊暁雄や近衛秀麿が好んで取り上げた“管弦楽のための木挽歌”、オーケストラとテープを使った作品“管弦楽のための「鄙歌」第一番”、交響組曲「能面」、和楽器のための「うぶすな」、音楽劇 「楢山節孝」 、オペラ「山椒太夫」など。
吹奏楽作品
その他のジャンルの作品
編曲作品