(1929 - 1997)
中村太郎に師事後、1945年に東京音楽学校作曲科に入学、橋本國彦、池内友次郎、伊福部昭に師事。大学3年のときにジャズバンド「ブルーコーツ」に入り、1年間ピアノを弾く。これが後に大きな影響を与えている。卒業と同時に数多くの賞に入選、委嘱も多数受ける。この頃N響より委嘱され「シンフォニック・ムード」を書く。1951年、フランスのパリ音楽院に留学、トニー・オーバン、アンリ・シャランに師事。しかし「パリには学校で教わる和声学の類に通暁している人がゴマンといる。その伝統のない我々が今さらそんなものに骨折っても仕方がない」と、1952年帰国、この年に三島由紀夫と知り合う。 1953年に團伊玖磨、芥川也寸志と共に「3人の会」を結成。オーケストラを雇っての作品発表会は当時大きな話題を呼んだ。1955年に日本初の電子音楽のみによる作品をNHKの協力で創る。作風は、当時としては斬新な常に前衛的なものと、仏教音楽やアジア的音響を意識したものがある。どの作品も極めて理論的に構成されている。代表作に「ミュージックコンクレートのための作品X,Y,Z」、「エクトプラスム」、「曼荼羅交響曲」、オペラ「金閣寺」(三島由紀夫原作)等。
吹奏楽作品
その他のジャンルの作品
編曲作品