渡邊浦人(Watanabe, Urato)


(1909 - 1994)

青森県生まれ。両親はクリスチャンで賛美歌などを聴いて育った。東京府立豊島師範学校を経て、東京音楽学校選科で大塚淳よりヴァイオリンを学ぶ。教職に就き、師範学校教員オーケストラ(後に東京教育交響楽団と改称)でヴァイオリンを弾き、同楽団指揮者を務めた山本直忠(山本直純の父)に作曲・指揮法を師事。後に同楽団指揮者に山本の後任として就き、18年間務めた。1939年より本格的創作活動に入り、翌年山本直忠、兄内庄一郎、東章夫、後藤治子、富樫康らとともに、作曲・演奏・鑑賞の三部門を主眼とする楽団「3協」を組織。音楽の普及発展につとめ、数回にわたる発表会をもった。この頃早坂文雄と交友を深め強い影響を受ける。1941年に作曲した交響組曲「野人」で第10回毎日音楽コンクール1位、文部大臣賞を受賞した。「野人」は戦中から戦後にかけて数多く演奏され、国内では新交響楽団、東宝交響楽団、国外では新京交響楽団、オスロ交響楽団などに取り上げられ、おそらくこの時期最も頻繁に演奏された邦人作品である。終戦後は1946年新作曲派協会に入会、1952年には教職を辞し、もっぱら創作活動を続けることにした。1955 年6月国際民族音楽評議会の招きにより「第3回国際民族音楽祭」に日本代表として出席、ノルウェーのオスロをはじめ、ヨーロッパ各国を遊学、各国の著名な音楽家と親交を深めた。文部省音楽教科検定委員、器楽教科書編纂委員、日本民族音楽協会理事、学校音楽コンクール審査員、東映動画部音楽顧問などを歴任。「芸術は民族の原始性から出発することによって世界化する(「野人」のプログラムノートより)」、「我々の血の中に流れている民族的な思想感情を芸術に仕上げることが私の作曲上の理念である。それは外国人の有しないものであり、日本国内では勿論、作品が世界的にもなる根源的なものである。(1952年談)」という態度を貫き、「野人」に代表されるような骨太い民族的響きを基調とした強靭で素朴な作品を多く残した。それらの作品は、戦時下の国民的感動を率直に表したものであっても、いわゆる際物に堕さず、ある水準を凌駕している。代表作に歌劇「大伴家持」、「ギターと管弦楽による三つの詩」、「グレゴリア聖歌による管弦楽曲」、「八重奏曲」など。また「母千鳥」、「赤胴鈴之助」、「人間の骨」など88本に及ぶ映画音楽も作曲した。(参考文献:「日本の作曲20世紀 Ontomo mook」(音楽之友社)他)

吹奏楽作品

作品名作曲年演奏時間出版社
シロフォン協奏曲「大和の幻想」0
交響曲「日本の祭り」0
必勝祈願太鼓0
日本祈願太鼓0
暁の日本太鼓(1945)0
社頭の暁195516分Ludwig Music
組曲「宮本武蔵」0
組曲「津軽」0
交響組曲《野人》194116分
闘魂0

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